『神主の遺言』

それぞれが「本当の私」と出会い、精神的な苦しみから脱して、自分らしい人生を送れるヒントを語ります。

脱!思い込み・思い込まされ

おはようございます。

ご訪問ありがとうございます。

 

またなんか屁理屈みたいな、ややこしいことを申しますが・・・

 

ある「元女性」の方が、小学生の時に「赤いランドセル」が嫌だった。

という思い出を語っておられました。

また「元男性」の方が、小学生の時に「黒いランドセル」が嫌だった。

おっしゃっていました。

 

彼らは、心と体の性が逆転している人で、

大人になって、心と体の性を一致させて、ご自分の人生を歩んでおられるようです。

 

今はランドセルの色や形状が豊富にあって、選べるようですが、

確かに昔は、

「男性」は「黒」

「女性」は「赤」みたいな決まりがあって、それになんとなく従っていたように思います。

ですので、「私は心が女性なのに、男性モノをしょわされて嫌だな・・・」

とか「私は心が男性なのに、女性モノをしょわされて嫌だな・・・」

という思いを持ったと思いますし、そう思うのは当然だと思います。

 

しかし・・・

「私は心が女性なのに、男性モノをしょわされて嫌だ」

「私は心が男性なのに、女性モノをしょわされて嫌だ」というのは、

その人の中で(いや、私たちみんなが)

「男性は男性モノを、女性は女性モノを身に付けることが当然である。」

という思い込みがあるから、「嫌だ」と思っている。というわけです。

 

つまり何が言いたいかと言うと、

心が女性だって、黒が好きな人もいるし、

心が男性だって、赤が好きな人もいる。ということです。

(ってここでは小学生のランドセルの色の話なので、子供の彼らにそんなことを言うのは酷な話なのは十分理解しています。)

 

男性だから、こうでなくちゃいけない、

女性だから、こうでなくちゃいけない、

なんて誰が決めたんですかね?

 

赤でも、黒でも、白でも、黄色でも、紫でも、茶色でも・・・・

 

「その人」が好きな色を選べばいいだけなのです。

私は男性だから、私は女性だから、この色を選ばないといけない。

というのは、まさに「洗脳」です。

※学校の規則で決まっているのではあれば、仕方ありません。それを「強制」とは言いません。

 

私が今お話していることが、性や色の好みの話しではないことにお気づきかと思います。

これは、人間一人ひとりの「感覚(センス)」のお話をしているのです。

 

私たちは「自由」なのです。

自由とは「選べる」ということです。

そして、その選ぶ基準はたった一つ、あなたの「感覚(センス)」です。

あなたが「良い」と思ったものが、良いのです。

重要なことは、「本当の私」が「良い」と思ったものかどうかということです。

 

あの人がこういうから、

社会通念上こうあるべきだから、

恥ずかしいから、

こうした基準に則って判断したものは、「本当の私」の判断ではありません。

ただ何も考えず、これが好きだから、これにする。

というのが、「本当の私」の判断なのです。

 

これは生き方全てにおいて言うことができます。

「私はただのサラリーマンだから、そんな大それたことはできない。」

「私はただの主婦だから、色々とあきらめている。」

 

これらも全て「洗脳」です。

物理的・時間的・経済的うんぬん、色々な障壁はあるでしょう。

しかし、サラリーマンだから・主婦だからというのは、行動を制限する理由にはならないのです。

あなたがやりたいと思ったのであれば、やれることを考えるだけなのです。

是非、みなさんも、ご自分のやりたいことに挑戦してみて下さい。

「本当の私」の喜びが伝わってくることでしょう。

 

 

 

 

と・・・

 

「自分なんてどうせ」と・・・

この「自分」を理由にあらゆることを諦め、挑戦を拒んだ私からのメッセージでした^^

でもその反動で、今は結構色々と挑戦を楽しんでいます。

 

 

それでは今日はここまで。

最後までお読み頂き、ありがとうございます。