瞑想合宿で感じた事(改題しました)
おはようございます。
ご訪問ありがとうございます。
今日は6月30日。一年の半分が過ぎました。
神社では「大祓式」という行事が行われます。
この行事は6月30日と12月31日の2回行われ、
夏越(なごし)の大祓、年越(としこし)の大祓と呼ばれています。
半年分の「知らず知らずのうちに身に付いた罪や穢れ」を祓う行事です。
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どこの神社でもだいだいこんな感じの説明がなされていると思います。
私はこの大祓という行事の存在を、大学生になって知ったのですが、
その時、「知らず知らずのうちに身に付いた罪や穢れ」っておいおいなんだ??
と思った記憶があります。
ただ、コレという説明を受けず、また私も深く考えることなく今日に至ったしまったのですが、やはり重要なことなので、少し考えてみたいのです。
とは言っても、
ここで「罪とは何か」「穢れとは何か」みたいな話になると、難しくなってしまいます。
「罪」とは「積む」が変化したもので、自分の身を滅ぼす材料を積む行為を罪という。みたいなことを誰かが言っていて・・・。
ふ~んと思ったことはありますが、いずれにせよ、哲学的な課題になってしまうので、ここではお話しないでおこうと思います(というより私にはできません。)
私がここで申したいので、あくまで私の実体験に基づくお話です。
で記したとおり、私は一昨年このヴィバッサーナ瞑想という瞑想合宿に参加してきました。
かなり前から参加したかったのですが、正味12日間という長い合宿になるので、そう簡単にはいけませんでした。
ただ周囲の協力を得て、とうとう行けることになったのです。
当時の私の課題は、とにかく毎日イライラしていて、不貞腐れていて、あらゆる物事が停滞しているようなそんな苦しい状況にありました。
ただ瞑想が精神に良い影響を与えることは知っていましたので、どうしても参加したかったのです。
この瞑想合宿の中身をここでつまびらかにすることは致しませんが、一つの特徴として、「他者とのコミュニケーションを一切断つ」というのがありました。
つまり、会話も挨拶もジェスチャーもボディタッチも全部禁止というものです。
これは私の話ではないのですが、ある人が瞑想中にメガネを外して床においていたら、そのメガネをうっかり別の人が踏ん付けて壊してしまったそうです。
でも言葉を発することができないので、誤れないし、ジェスチャーですいませんともできないし・・・ただグシャっと踏みつぶされてそのまま・・・。と言った感じだったそうです。
とにかく10日間は指導者と二言三言会話するくらいで、あとは一日中無言です。
それが10日間続くのですが、こんなに人としゃべらないなんて、たぶん生まれる前の母親の胎内にいた頃以来なんだろうなぁ~と思いました。
そして最終日の前日にこの他者とのコミュニケーションが解禁になります。
「聖なる沈黙」が終わると表現していました。
参加者同士で話をすることができるのです。
何しろ同じ空間にずっと一緒にいるのに、参加者みんな名前も知らないし、どんな人かももちろん知りません。
そして何より10日ぶりに声を出す感覚が不思議で、どんどん色んなことをしゃべりたくなってくるのです。
みんなで輪になって、お名前は?どこから来たの?なんで参加したの?今回が初めて?瞑想中はどんな感じだった?あの時こうだったよね。あの講話は面白かったよね。
とか・・・・。
こうした会話をず~っとしていると・・・・
「あ・・・・これが「知らず知らずのうちに身に付く罪や穢れ」かも。」
と思ったのです。
つまり、言葉として相手に何かを伝えたり、相手の話を聞いてそれに受け答えするだけでも、相手に合わせたり、少し盛ったり、全然本意ではないのに同意していたりするのです。
この合宿の決まり事は「他人とのコミュニケーション禁止」の他にも色々あるのですが、その中に一つに「嘘をつかない」というものがあります。
私はこの会話が解禁になった途端に、非常に微細な嘘をついていることに気が付きました。
ですから私は、繰り返しますが、これがひょっとしたら大祓で人々に説明する際によく用いる、
「知らず知らずのうちに身に付いた罪や穢れ」
の一つだと思ったわけです。
人間は人とコミュニケーションを取るだけで、こうして悪意なく罪や穢れを身に着けてしまい、それが体や精神に多少なりとも悪い影響を及ぼすのだろうと思います。
ですから、こうした大祓式という昔からの儀式を行うことで、心身の清浄を保とうとしたのだと思います。
みなさんは、どうお考えになりますか?
下半期もどうぞ健康でお過ごしください。
それでは今日はここまで。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。